2009年06月30日

[書評] 酒見 賢一 / 『陋巷に在り』

陋巷に在り〈1〉儒の巻 (新潮文庫) 酒見 賢一 / 『陋巷に在り〈1〉儒の巻』 / 1996-03 / 新潮文庫 / A

およそ5年ぶりの再読。いや〜よかった。
改めてこの作品が僕自身に与えた影響を思い起こした次第。
(ちなみに、しばらく本ブログの更新が滞っていた理由の一つは、このシリーズ全13巻をじっくり読みふけっていたから、です。)

主人公は孔子とその弟子、顔回。
いや、顔回とその師である孔子というべきか。

孔子とは、私たちが儒教の創始者として知っているあの孔子。
宗教としての形を整えたのは後の時代の弟子だし、果たして宗教として信仰されているのかというとそれも疑問ではあるけど、それでも孔子が始祖として認定されているのは孔子が「呪と祝を切り離し礼を整えた」人だから、というのが本書のスタンス。

呪も祝も(白川静によれば)もとは同じ行為。ただ、陰と陽、男と女、裏と表の関係にある。 渾然一体となっていたその行為や効果から、きれいな部分だけを取り出して精製し整形したのが孔子。
本書ではその過程が描かれている。
その過程が描かれるということは、つまりその過程で捨てるべしと孔子に判断されたきたない部分も描かれるということ。これがもう、本当に面白い。

呪と祝。
元旦に神社に初詣。お盆やお彼岸にお墓参り。対象は違うけど、神様やご先祖様という人ならぬものに手を合わせて祈る行為。あるいは雨乞い。あるいは願掛け。
普通の人は見えないけど、その途中経過を見たり操ったりすることができる職能集団が巫で、孔子や顔回もその一派である顔氏の出身(巫は巫女の巫。女性に限定されるものではないけど)。

孔子は巫と礼のあり方に関して「革命」が必要だと考えていた。 この同じ力の負の側面を押さえ正の側面をもっとのばさなければ行けない、と。そしてその礼の力によって中原に再び良き世の中・天下を作り出さねばなるまい、と。

呪と祝を切り分けるためにはその両方に精通している必要がある。 孔子と顔回はその最後の人だった。
呪と祝を切り離してしまったからこそ最後の人となってしまったのか、最後であることを自覚していたからこそ切り離したのか。
後者の立場に立ちつつも前者の視点を切り捨てていないのが酒見賢一のおもしろさ。裏を切り離した表が存在できないように、人の都合で片方のみを扱ったり、一方から得られるメリットだけを享受しようとしても無理が生じる、というニュアンスがにじみ出ている。うーん、深いなぁ。

聖の巻
祝の巻
といったように、13巻まである各巻にはサブタイトルがつけられている。
中扉の見開きにはその言葉について白川静の字統などから語義が引用してある。 特に、口(くち)という字を食べたりしゃべったりするくちの象形文字ではなく、サイという祝器である、という観点から古代中国の社会のあり方までを描いたところは、この扉の言葉や本書(シリーズ全体)とも世界観がぴったり一致していて面白いことこのうえなし。
逆に、私はこの扉の言葉を読んで白川静の世界を見直した次第。

全13巻はさすがに長くてたっぷりと楽しめたのだけど、それでも物語が完結しないまま終わってしまうためもっと続きを読みたい。これだけは残念。
作者曰く「この後、顔回は孔子とともに魯の国を出てしまう。当然、それまで済んでいた陋巷(スラム)を出てしまう訳だから、題名を裏切ることになる」。
まあ、雑誌の連載だったこの小説。1990年12月号から2002年5月号まで135回も続いたというのだから、打ち切りにならなかった方が僥倖というべきか。
本人も「日本人の書いた偽中国小説」という指摘についてあとがきで触れているけど、史実かどうかと関係なく、人間の真実を描いた素敵な作品と作者に感謝したい。
民族誌(エスノグラフィー)的に読んでも非常に興味深い。眉につばをつけず、現代の私たちからすると非合理でも、その社会の中では整合的な論理の一つのありかた、として楽しんでもらえたらいいなぁとも思う。

Amazon.co.jp: 『陋巷に在り シリーズ全13巻 (新潮文庫)』

posted by ほんのしおり at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍・雑誌

2009年06月14日

[書評] 仁木 英之 / 『僕僕先生』

僕僕先生 (新潮文庫) 仁木 英之 / 『僕僕先生』 / 2009-03-28 / 新潮文庫 / B+

手にとった時、「面白そう!」という予感と「酒見賢一の劣化縮小コピーじゃない?」という予感の両方があったんだけど、嬉しいことに前者があたって後者がはずれた。

可愛い少女の格好をしているけれど、その実(じつ)、数千年は生きている仙人の僕僕先生(ぼくぼくせんせい)。
今の日本で言えばパラサイトシングル、ニートといった存在の王弁(おうべん)。
裏表紙の紹介文によれば「不老不死にも飽きた辛辣な美少女仙人と、まだ生きる意味を知らない弱気な道楽青年」ということになるんだけど、そのアニメ的な好都合すぎるだろ、という設定がうまい具合におかしみにつながっている。

見た目は美少女なんだけど、実際にはおじいさん(もしくは、おばあさん)。この恋はどこまで本物なんだろう。
(仙骨はないので)仙人にはなれないと分かっているのに修行を続ける意味なんてあるんだろうか。
仙人も、仙人ではあっても神様ではない。完璧ではない。仙人ならではの苦悩とは。

なんてことを思いつつも、それどころではない抱腹絶倒のストーリー展開に引き込まれて腹筋が引きつる。いい作品に出会えた。

『僕僕先生』を手にとると頭に浮かぶのはこの三冊。

酒見 賢一 『後宮小説』
古代中国を舞台にした少女主人公つながり。
ファンタジーノベル大賞受賞作つながりでもある。
山田 史生 『もしも老子に出会ったら』
老荘思想と少女つながり。
『僕僕先生』では少女が仙人なんだけど。
程 聖龍 『仙人入門』
仙人つながり。
でも、『僕僕先生』が描く仙人像とはかなり違う。

Amazon.co.jp: 『僕僕先生 (新潮文庫)』

posted by ほんのしおり at 09:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 書籍・雑誌