酒見 賢一 / 『陋巷に在り〈1〉儒の巻』 / 1996-03 / 新潮文庫 / A
およそ5年ぶりの再読。いや〜よかった。
改めてこの作品が僕自身に与えた影響を思い起こした次第。
(ちなみに、しばらく本ブログの更新が滞っていた理由の一つは、このシリーズ全13巻をじっくり読みふけっていたから、です。)
主人公は孔子とその弟子、顔回。
いや、顔回とその師である孔子というべきか。
孔子とは、私たちが儒教の創始者として知っているあの孔子。
宗教としての形を整えたのは後の時代の弟子だし、果たして宗教として信仰されているのかというとそれも疑問ではあるけど、それでも孔子が始祖として認定されているのは孔子が「呪と祝を切り離し礼を整えた」人だから、というのが本書のスタンス。
呪も祝も(白川静によれば)もとは同じ行為。ただ、陰と陽、男と女、裏と表の関係にある。
渾然一体となっていたその行為や効果から、きれいな部分だけを取り出して精製し整形したのが孔子。
本書ではその過程が描かれている。
その過程が描かれるということは、つまりその過程で捨てるべしと孔子に判断されたきたない部分も描かれるということ。これがもう、本当に面白い。
呪と祝。
元旦に神社に初詣。お盆やお彼岸にお墓参り。対象は違うけど、神様やご先祖様という人ならぬものに手を合わせて祈る行為。あるいは雨乞い。あるいは願掛け。
普通の人は見えないけど、その途中経過を見たり操ったりすることができる職能集団が巫で、孔子や顔回もその一派である顔氏の出身(巫は巫女の巫。女性に限定されるものではないけど)。
孔子は巫と礼のあり方に関して「革命」が必要だと考えていた。 この同じ力の負の側面を押さえ正の側面をもっとのばさなければ行けない、と。そしてその礼の力によって中原に再び良き世の中・天下を作り出さねばなるまい、と。
呪と祝を切り分けるためにはその両方に精通している必要がある。
孔子と顔回はその最後の人だった。
呪と祝を切り離してしまったからこそ最後の人となってしまったのか、最後であることを自覚していたからこそ切り離したのか。
後者の立場に立ちつつも前者の視点を切り捨てていないのが酒見賢一のおもしろさ。裏を切り離した表が存在できないように、人の都合で片方のみを扱ったり、一方から得られるメリットだけを享受しようとしても無理が生じる、というニュアンスがにじみ出ている。うーん、深いなぁ。
聖の巻
祝の巻
といったように、13巻まである各巻にはサブタイトルがつけられている。
中扉の見開きにはその言葉について白川静の字統などから語義が引用してある。
特に、口(くち)という字を食べたりしゃべったりするくちの象形文字ではなく、サイという祝器である、という観点から古代中国の社会のあり方までを描いたところは、この扉の言葉や本書(シリーズ全体)とも世界観がぴったり一致していて面白いことこのうえなし。
逆に、私はこの扉の言葉を読んで白川静の世界を見直した次第。
全13巻はさすがに長くてたっぷりと楽しめたのだけど、それでも物語が完結しないまま終わってしまうためもっと続きを読みたい。これだけは残念。
作者曰く「この後、顔回は孔子とともに魯の国を出てしまう。当然、それまで済んでいた陋巷(スラム)を出てしまう訳だから、題名を裏切ることになる」。
まあ、雑誌の連載だったこの小説。1990年12月号から2002年5月号まで135回も続いたというのだから、打ち切りにならなかった方が僥倖というべきか。
本人も「日本人の書いた偽中国小説」という指摘についてあとがきで触れているけど、史実かどうかと関係なく、人間の真実を描いた素敵な作品と作者に感謝したい。
民族誌(エスノグラフィー)的に読んでも非常に興味深い。眉につばをつけず、現代の私たちからすると非合理でも、その社会の中では整合的な論理の一つのありかた、として楽しんでもらえたらいいなぁとも思う。
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