2009年09月24日

[書評] 斉藤 美奈子 / 『誤読日記』

誤読日記 斉藤 美奈子 / 『誤読日記』 / 2009-09(2005-07) / 文春文庫 / C+

『週刊朝日』(2000/4/28-2001/12/28)、『週刊AERA』(2002/12/30-2004/9/6)の連載をまとめたもの。
ときどきピリっと辛子のきいた「よっ、さすが美奈子ねえさん!」という記事もあるけど全般的に低調。

思うに、斉藤美奈子の良さというのはあるテーマに従って対象となる作品や作家・分野を集中的に読み込むことによって、それまでとはまったく違う光を当てることにある。
デビュー作の『妊娠小説』がまずそうだったし、私の大絶賛する『モダンガール論―女の子には出世の道が二つある』もそうだし、『読者は踊る』『文章読本さん江』もあれもこれも(少なくとも私の中で評価の高い作品には)そういう傾向がある。

だけど、本書は切れが悪い...
週刊誌の連載だからかもしれない。時事ネタやその時に流行している本に対してコメントするスタイルは、上で挙げた美奈子ねえさんの良さとは逆方向のような気がする(同じAERAでこの後に連載されていた『実録 男性誌探訪』はすごく面白かったから)。

とはいえ、やはりキラリと光る言葉はありまっせ。以下、いくつかご紹介します。

村上龍は「いまもっとも時代を鋭く描く作家」ということになっているのだが、しかし、みんながいう「時代」とは何なのか。もしかしてワイドショー・ジャーナリズムのことなのか。(p.244)
(辻仁成を評して)この作家の通俗性には年々磨きがかかっていく。(p.290)
(『いま、会いにゆきます』を評して)セカチュウ(『世界の中心で愛を叫ぶ』)+テンポン(『天国の本屋さん』)。それを30倍に希釈した村上春樹文体でつづった本といえば、ようすがわかってもらえるだろうか。あと、江原啓之さん的な「スピリチュアル・ワールド」な感じも混ざっているかも。(p.303)
『二十一世紀に希望を持つための読書案内』を見たときにも、やはりというか、またかというか、たじろいだ。反論不能な『正しいこと』がたくさん書かれていたからである。(p.328)
石田衣良の小説に見るべきものがあったのは、『4TEEN』の頃までで、それ以降の作品が生彩を欠くような気がするのはただの錯覚?(p.355)

Amazon.co.jp: 『誤読日記』

posted by ほんのしおり at 00:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍・雑誌

2009年09月13日

[書評] 村上 龍 / 『愛と幻想のファシズム』

愛と幻想のファシズム(上) 愛と幻想のファシズム(下) 村上 龍 / 『愛と幻想のファシズム(上/下)』 / 1990-09(1987) / 講談社文庫 / B-

読書会の課題図書になったので十数年ぶりに再読してみた。
やはり、執筆当初から数えて20年以上が経とうとしているというのに、全く古びていないことに驚く。 むしろ、当時はまったくあり得ないと思われていた舞台設定がよりリアルに、あるいは十分あり得ることとしてイメージできるようになっているくらい。
著者の眼の確かさには感嘆する。
例えば政権交代。例えば米ソ協調。欧州共通通貨。カリスマ指導者を切望する空気。

ただ、それは「経済小説として」あるいは「政治小説として」読んだ時のことであって、「文学作品」として読んで見ると(当時もそうだったけど)『コインロッカー・ベイビーズ』に連なるシリーズがどうしても好きになれない。破壊衝動丸出しの、野生動物を見習えといいたくなる下品さが。

著者のあとがき。

 私はこの作品でシステムそのものと、そのシステムに抗する人間を描こうとしたが、それは大変な作業で、困難の連続であった。
 私には自分でも分からないのだがシステムへの憎悪といったものがあり、これまでの作品でもそのことは必ずメインテーマとなってきた。
 そして、本書でついにシステムを全面的に支え、ある時にはシステムそのものとなる経済と出会ったのである。(下:p.537)
うーん。本書で描かれているのは「既存のシステムの破壊」と「別のシステムの構築」であって、決して「システムに抗する個人」ではない。 主人公の冬治はハンターとして、追いつめるところまでの意図しかないけど、会員が数十万人いる狩猟社という政治結社(政党)にしたって十分大きなシステムだ。

そこにどうしても欺瞞を感じてしまう。 作品にのめり込めない。 ガキが大人の世界を壊していくえげつなさに喝采よりは違和感を感じてしまう(私が歳を取ったということかもしれない)。
そして、アメリカの大味な映画のようにじゃんじゃん人が死ぬ(主人公たちに殺されていく)のも読んでいて気持ちがさめてしまう原因。アサリを味わっていて砂をかんだときの気分。

う〜ん。一人ひとりが強くならないと、この小説に描かれているような状況に陥るよ、という著者からの警告なのだろうか。 読者の多くは自分を(主人公たち)"勝ち組"に引き寄せて読むだろうけど、もし本当にこの小説に書かれている事態が訪れたら、間違いなく負け組、奴隷側だ。

(ただ、トウジ、ゼロ、フルーツの三人が織りなす甘く切なく冷たい切実な思いだけは輝いている。これは美しい...)

2009年9月14日の池田信夫blogに本書のテーマにぴったりのエントリが掲載されている。
ソニーVSサムスンという記事で、要旨は「カンパニー制(委員会設置会社)にしたソニーは独裁制をしいたサムスンに負けた、経費削減ではなくイノベーションがモノをいう世界で勝ち残るには合議制ではなく独裁制の方が適している」というもの。
会社を国に置き換えてしまえば本書が攻撃している日本の世界と驚くほど似ている。「これがトウジの、狩猟社メンバーの(あるいは/そして著者の)苛立ちだったのか、と納得。

Amazon.co.jp: 『愛と幻想のファシズム(上)』 『愛と幻想のファシズム(下)』

posted by ほんのしおり at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍・雑誌

2009年09月06日

[書評] 伊坂 幸太郎 / 『終末のフール』

終末のフール 伊坂 幸太郎 / 『終末のフール』 / 2009-06(2006-03) / 集英社文庫 / B

「もし、自分の余命があとX日だったら」という仮定は多くのドラマや映画、小説のテーマになっているけど、この作品が面白いのは「あと3(8)年」という中途半端に長い(あるいは短い)期間に設定されていること、そしてそれが「人類にとっての」余命でもある点。
さすが伊坂幸太郎、と思わせるいい作品でした。

「8年後に地球に小惑星が衝突し人類は絶滅する」と予告されて5年.当初のパニックも落ち着いてきた仙台郊外の団地が舞台。
どんなに頑張ってもあと3年。じたばたしてもあと3年。
いろいろなものごとがこの動かしようのない重い重い壁の前に空中分解せざるをえない日々。 そんな状況で"無駄な"日常会話を楽しめるんだろうか? ちっぽけな幸せは見つかるんだろうか? 見つかったとして、救われるんだろうか?

章ごとに語り手がかわってゆくリレー小説の形をとりながら、伊坂幸太郎はうなずく。 Yes。希望はある。

例えば第二章の「太陽のシール」。 妊娠が分かったとして、子供を産むべきなんだろうか? 無事に生まれて育ったとしても3年後には地球が滅びる。 何も知らない今、中絶した方が赤ちゃんも幸せなんじゃないのか? 子供が言葉を覚えたとき、どう説明したらいいんだろうか?
それでも、主人公たちは選ぶ。希望のある方を。

さすがだな、と思ったところ。
小さな希望も小さな絶望も、きっちり描いているところ。
絵に描いたような悪者ではなく、気の小さい/気の良い/気持ちの優しい私の意地悪を見逃さず描いているところ。
一度は混乱した治安が持ち直した理由を「破壊衝動を正義感で正当化する行為を国家が認めたから」と描いているところ。
胸がじんわりあったかくなったり、みぞおちのあたりがひんやりしたり、お尻の穴がむずむずしたり、伊坂ワールドを堪能できます。

リレー小説になっているせいで特定の主人公に感情移入しきれない、ストーリーをぐいぐい読み込んでいけない、というのが欠点と言えば欠点です。 複数視点で書くことで同じ事象が見せる異なる表情(かお)を浮かび上がらせる、という手法のほうが有効なことは分かっているんですが、外伝を読んでみたい気がします。

Amazon.co.jp: 『終末のフール』

posted by ほんのしおり at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍・雑誌