2009年11月29日

[書評] 内田 樹 / 『日本辺境論』

日本辺境論 内田 樹 / 『日本辺境論』 / 2009-11 / 新潮新書 / A

わはは、とても乱暴で愉快な「街場の日本論」でした。 帯にある養老孟司の推薦の言葉が「これ以降、私たちの日本人論は、本書抜きでは語られないだろう。」となっています。
著者自ら言うように、本書は学術書ではないため、そういう方面では直接相手にされないでしょうが、「日本は辺境の地だから」という観点は確かに私のアタマの中に刻まれてしまい、今後どんな日本人論を読んだところでまずこの発想と照らしてみるところから自由になれないでしょう。

本書のスタンスは「百花繚乱の日本論・日本人論に共通する何かを、一本の補助線を引くことで浮かび上がらせる」というもの。
「辺境の地、日本。中央に正しいもの優れたものがあり、それをいかに取り込むか」というテーマこそが、卑弥呼の時代から明治になっても昭和になっても、そして平成の時代になっても、ずーっと最大の関心事であり続けた、という。
「中央」は長らく中国(中華)で、明治からは欧米に、太平洋戦争後は米国に変わったけれども、それでも変わらなかったのはこの「目指すべきものは外にある」というスタンス。

ははぁ。なるほど、の連続。
中央と辺境。宗主国と植民地。キャッチアップ。ロールモデル。パラパラと登場するキーワードは、すべてどこかで習ったり読んだりして知っていたものばかり。 そして、著者自身も「この本に書いてあることはすべて先人の指摘したことの言い換えにすぎない」といっている。
それでも、この「補助線」のなんと強力なことか。

数学(算数)で、どうしても分からなかった問題が、一本の補助線によっていきなり解けるようになる快感。一度それを知ってしまうと、もうそれ以外の見方ができなくなってしまうくらい焼き付いてしまう思考の枠。
それを日本人論で味わってみてください。 なんとも強烈(奇妙奇天烈でもある)な話の連続が、目から落ちた鱗に埋もれそうになったり、膝を打ちすぎて骨折しそうになるくらいの楽しさに変わります。

Amazon.co.jp: 『日本辺境論』

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2009年11月23日

[書評] 篠原 匡 / 『腹八分の資本主義

腹八分の資本主義 篠原 匡 / 『腹八分の資本主義』 / 2009-08 / 新潮新書 / B

日経ビジネスオンラインの記事を再編集したもの。 日本を、特に地方を覆う閉塞感を打ち破るヒントを求めてユニークな取り組みを行っている企業や地方自治体を訪ね歩く。

篠原さんの記事は日経ビジネスオンラインの中でも私のお気に入り。 一冊の本にまとまったということで喜び勇んで手に取ってみた。

悲観しているだけでは何も変わらない。目を凝らせば、日本の中にも希望はあるものだ。(中略)共通しているのは、社会を蝕む「強欲」を退け、お金には代えられない価値を守り続けていることである。(カバー見開きの紹介文より)
この基本姿勢は本書でも変わっていない。 事例紹介記事として、とても素晴らしい読み物になっている。 目のつけどころの良さ、インタビューのうまさ、バランス感覚、やや楽観主義的にすぎるかなと思うこともあるほどの前向きな姿勢。

そうそう。本書は「資本主義」を否定している訳ではない。「強欲な資本主義」を否定している。腹八分目でやめておこうよ。
一方で、資本の論理が働かない、欲だけが駆動力となる地方交付金(助成金)がどのような結果を招くのかも描いている。
理想的ではないと文句をいうことは簡単だけど、少しでもましな方法があればそれを使おう、それは穏やかな資本主義ではないか。そんなメッセージを感じる。
「そんなにうまくいくの?」と思うこともあるけど、本書にはその希望の光が紹介されている。少ないけれども成功事例があること、解はあること、やり方次第でなんとかなりそうだというヒントが。

ただ、一冊まとめて読んでみると、物足りなさを覚えるのも確か。 本書は入り口(広く浅く)知る、そういうやり方もあるんだと知ることには向いているけど、どうしても丁寧に掘り下げていく、長期間にわたって検証してみる、という点は守備範囲外。
りんごでもレストランでも森林でも、一冊まるごと取り上げている(時に著者が本人の)本もあるようなので、今度はそっち方面に手(足)を伸ばしてみよう。

Amazon.co.jp: 『腹八分の資本主義 日本の未来はここにある!』

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2009年11月08日

[書評] 島内 景二 / 『中島敦「山月記伝説」の真実』

中島敦「山月記伝説」の真実 島内 景二 / 『中島敦「山月記伝説」の真実』 / 2009-10 / 文春新書 / C+

『文豪の古典力−漱石・鴎外は源氏を読んだか−』が面白かった、文学探偵こと島内景二が中島敦の『山月記』の真実に迫る。

真実というとちょっと大げさだけど、今回も「文学探偵」よろしくへぇ、なるほど、と思わせる筆運びはさすが。 ただ、ロマンチックすぎるというのか感傷的すぎるというのか、甘くてベタベタしているので一冊まるごと読み通すのは少し骨が折れる。

高校の教科書で出会って、確かに面白かった『山月記』。
本書は、なぜこの作品が高校の教科書の定番になったか、の背景にも迫る。
高校の教科書に初めて登場するのは、意外と古くて昭和二十五年(1950年)。 作品が発表されたのが昭和十六年(1941年)、中島敦が亡くなったのが昭和十七年(1942年)。

その背景には、釘本久春という有力な文学官僚の友情と支えがあった、という。
読んでなるほど。 ここで語られる「友情」という言葉は小説の中でしか読んだことがない類いのもの。 旧制高校で熱く熱く語られたであろう真実や友情を文字通り貫いた「官僚」という物語には感嘆せざるをえない。
先に甘くてベタベタと書いたけれど、応援したくなるのもわかる。

もう一つの大きな「真実」は、「人虎伝」。
『山月記』には種本があって、人が虎になる、昔の友人とばったり出会って云々というお話は当時でもある程度知られている中国古典であったし、一年前の昭和十六年には佐藤春夫がその『人虎伝』を『親友が虎になっていた話』として翻訳/翻案したばかりだった。
皮肉にも、佐藤春夫は芥川賞の選考委員だった翌年、中島敦の作品を(島内の推理では)読まずに落選させている。

そこまで読んで改めて浮かび上がるのは、『山月記』の何があの作品を輝かせているのか、ということ。 プロットやストーリーにはオリジナリティが無い、といっていいのだから。
となると、描き方であり、言葉の選び方であり、推敲という言葉が生み出すであろう何かであったんだろうな、と思いいたる。
ふむ。これはまた「誰でも書ける」とは対極の、小説の一つの形ではありますね。

Amazon.co.jp: 『中島敦「山月記伝説」の真実』

posted by ほんのしおり at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍・雑誌