南 直哉 / 『老師と少年』 / 2009-11(2006-10) / 新潮文庫 / B
お坊さんが、「私とは何か? 何のために生きるのか? 死とは何か?」といった少年の切実な質問に応える。
そう、「答える」のではなくて「応える」。
少年の質問に直截こたえているわけではないけど、はぐらかしているわけでもない。
少年の苦しみに同情しているわけでも共感しているわけでもない。
だけど、少年は「私は受け入れられた」と感じる。
「本当の自分」をめぐってかわされる第二夜の対話より。
老「君は会ったこともない人を捜し出すことができるか」(※行頭の「老」「少」は引用者である私がつけ加えたものです)
少「できません」(中略)
老「君は『本当の自分』ではない。だから、『本当の自分』はわからない。だから、本当の自分を永遠に知ることはできない。会ったことのない人はさがせない」(中略)
老「なぜなら、『私』という言葉は、確かな内容を持つ言葉ではなく、ただある位置、ある場所を指すにすぎない」
少「その場所はどこですか」
老「『あなた』や『彼』ではないところ、『いま、ここ』だ。『私』はそこについた印なのだ」
少「それだけのこと?」
老「それだけだ。その場所に人は経験を集め、積み上げ、それを物語る」
少「では、『本当の自分』をさがす人はただ愚かなだけですか?」
老「そうだ。しかし、愚かさでしか開けない道もある」
(p.29-34)
どちらかというと、少年ではなくて老師の横に身をおいて読んでいたのは、私が年をとったから。
そして、私が親になったから、でもある。
例えば上に引用した「自分探し」。
今となっては、問い自体が消えてしまった。答えが見つかったのではなく、問いそのものに意味や価値を見出しにくくなってしまったから。
親というのは先祖から預かった何かを子に伝えていくための器にすぎない、という思いがある日自然な理解として腹の中に落ちていて、そうしたらいろいろな葛藤(=我利?)がすーっと消えていた。
とは言うものの、悟りを開いたわけでもないので、またいつかこの老師に会いたくなるかもしれません。その日が来て欲しいような欲しくないような気持ちです。
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