村上 春樹 / 『走ることについて語るときに僕の語ること』 / 2010-06(2007-10) / 文春文庫 / A
食わず(読まず)嫌いで敬遠していたことを後悔。いい読書でした。
食わず嫌いだった原因のひとつは、タイトルのあまりの格好良さと語呂の悪さ。
レイモンド・カーヴァーの"What we talk when we talk about love"からもらったそうな。道理で。
書くためには、走る必要があった。
走るためには、書く必要があった。
走り続けていなければ、書き続けることもできなかった。
書き続けていなければ、走り続けることもできなかった。
たんなるジョギング、健康法、気晴らしではなくて、作家としてあり続けるためには欠かせない行為であったのだ、という。
執筆をマラソンに例えるのは、まぁ、よく聞く話し。
だけど、村上春樹の伝えるニュアンスは少し違う。彼は言う。
練習を積んでいないとマラソンを走ることができないように、練習を積んでいないと作品を書くことはできないのだと。
才能に任せて書き散らしたり書きなぐったりすることは短い間であれば可能だろうけど、長い間にわたり、コンスタントに、一定の品質で書き続けるためにはトレーニングと鍛錬が必要なのだと。
老いや思うようにならないこととどう向き合うのかまで含めて丁寧に、正面から語ってくれるのを聞くと(そう、読むというより聞くという読書体験に感じられる)、説得力がある。
村上作品に乱暴なシーンが登場しても、粗雑に感じられない理由はこれか。乱暴さを丁寧に書いているんだ。
学校とはそういうところだ。学校で僕らが学ぶもっとも重要なことは、「もっとも重要なことは学校では学べない」という真理である。(p.72)
内田樹翁と相性がいいのがよくわかりますね。
走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。暇をみつけては、せっせとくまなく磨き続けること。(p.111)
この「メモワール」という形式もよかった。本人も書きあぐねていて、これなら書けると思った由。
随筆(エッセイ)でもなく、ドキュメンタリーでもなく、メモワール。
状況だけでなく心境まで伝わってきそうな素晴らしい写真。
少々ジャーナリスティックな俯瞰。
本人にしか書き留められなかったであろう内側から描いた瞬間。
時間軸でも、ちょうど良い距離感。
個人的には走ることからずいぶん遠ざかっているし、走ることの喜びを最後に感じたのは、さて、いつのことだったかしらという状態。
それでも、この作品に引きずり込まれてしまった。
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『走ることについて語るときに僕の語ること』
posted by ほんのしおり at 00:27|
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