以前、専門家であるということを書きました。その続編です。
「カフェ・ヒラカワ店主軽薄 - 『街場の中国論』を読む。」に、専門家についての素晴らしい考察があり、紹介したく。
専門性と判断力はほとんど、無関係だと思ったほうがよい。専門家だからよく知っている、というのはあながち間違っていないでしょう。 でも、専門家であることを自覚していると、逆に「自分が知らないこと」に対して無自覚になる傾向があります。このことの危険性を、するどく指摘しています。
ある意味で、専門性とは期間限定、場所限定の言葉だからだこれは前回のエントリにも通じるところがあります。 何かに特化しているということは、限定している/限定されているということでもあります。
先日、山形 浩生の 『新教養主義宣言』について「射程と有効期間の長い話しのできる知性だなと思う。それを教養と呼ぶかどうかは別にして。」という一言書評を書いたのですが、やはりこれは教養と呼ぶべきなんでしょうね。