2009年09月13日

[書評] 村上 龍 / 『愛と幻想のファシズム』

愛と幻想のファシズム(上) 愛と幻想のファシズム(下) 村上 龍 / 『愛と幻想のファシズム(上/下)』 / 1990-09(1987) / 講談社文庫 / B-

読書会の課題図書になったので十数年ぶりに再読してみた。
やはり、執筆当初から数えて20年以上が経とうとしているというのに、全く古びていないことに驚く。 むしろ、当時はまったくあり得ないと思われていた舞台設定がよりリアルに、あるいは十分あり得ることとしてイメージできるようになっているくらい。
著者の眼の確かさには感嘆する。
例えば政権交代。例えば米ソ協調。欧州共通通貨。カリスマ指導者を切望する空気。

ただ、それは「経済小説として」あるいは「政治小説として」読んだ時のことであって、「文学作品」として読んで見ると(当時もそうだったけど)『コインロッカー・ベイビーズ』に連なるシリーズがどうしても好きになれない。破壊衝動丸出しの、野生動物を見習えといいたくなる下品さが。

著者のあとがき。

 私はこの作品でシステムそのものと、そのシステムに抗する人間を描こうとしたが、それは大変な作業で、困難の連続であった。
 私には自分でも分からないのだがシステムへの憎悪といったものがあり、これまでの作品でもそのことは必ずメインテーマとなってきた。
 そして、本書でついにシステムを全面的に支え、ある時にはシステムそのものとなる経済と出会ったのである。(下:p.537)
うーん。本書で描かれているのは「既存のシステムの破壊」と「別のシステムの構築」であって、決して「システムに抗する個人」ではない。 主人公の冬治はハンターとして、追いつめるところまでの意図しかないけど、会員が数十万人いる狩猟社という政治結社(政党)にしたって十分大きなシステムだ。

そこにどうしても欺瞞を感じてしまう。 作品にのめり込めない。 ガキが大人の世界を壊していくえげつなさに喝采よりは違和感を感じてしまう(私が歳を取ったということかもしれない)。
そして、アメリカの大味な映画のようにじゃんじゃん人が死ぬ(主人公たちに殺されていく)のも読んでいて気持ちがさめてしまう原因。アサリを味わっていて砂をかんだときの気分。

う〜ん。一人ひとりが強くならないと、この小説に描かれているような状況に陥るよ、という著者からの警告なのだろうか。 読者の多くは自分を(主人公たち)"勝ち組"に引き寄せて読むだろうけど、もし本当にこの小説に書かれている事態が訪れたら、間違いなく負け組、奴隷側だ。

(ただ、トウジ、ゼロ、フルーツの三人が織りなす甘く切なく冷たい切実な思いだけは輝いている。これは美しい...)

2009年9月14日の池田信夫blogに本書のテーマにぴったりのエントリが掲載されている。
ソニーVSサムスンという記事で、要旨は「カンパニー制(委員会設置会社)にしたソニーは独裁制をしいたサムスンに負けた、経費削減ではなくイノベーションがモノをいう世界で勝ち残るには合議制ではなく独裁制の方が適している」というもの。
会社を国に置き換えてしまえば本書が攻撃している日本の世界と驚くほど似ている。「これがトウジの、狩猟社メンバーの(あるいは/そして著者の)苛立ちだったのか、と納得。

Amazon.co.jp: 『愛と幻想のファシズム(上)』 『愛と幻想のファシズム(下)』

posted by ほんのしおり at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍・雑誌
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