2006年05月02日

嫌う、ということ

FADさんという方からコメントを頂いてご本人のblogを読んでみたのですが、
すぐにコメントを返すことができずにいました。


嫌う、ということでそれなりに考え悩んだことがあり、またFADさんが嫌い(ふりがなは「愛してる」)といっている中島義道には私も一時
「毒に当たっていた」時期があるからです。返事を延ばし延ばしにしている間に素敵なblog「
M17星雲の光と影」を見つけて、
やっとペンを執ることができるようになりました。


 




 


まず、FADさんが自己紹介とblogのサブタイトルにしている言葉について。



 「他人を正確に嫌い、自分が他人に嫌われていることを正確に受け止める修行」
をしています。



「嫌う」ということばに「正確に」という形容動詞がつく、ということにまず衝撃を、次に好感を、
そして最後に悲しみを覚えました。


普通、嫌いなことに対してちゃんとその理由を認識できる人はいません。「何で嫌いなの〜?」と言われて「なんとなく・
・・」以上のことを、言い訳としてではなく、きちんと答えることができる人は素晴らしい人だと思います。
ましてやそれがモノではなくヒトである場合、とても難しいことです。他人を嫌いな自分をきちんと見つめることができる人は尊敬します。
これが好感の理由です。


ただし、「他人を嫌いな理由をちゃんと自分自身と向き合って見つめられること」は「正確に嫌う」
ことと同じではないと思います。これが衝撃と悲しみの理由です。


「他人を正確に嫌う」というのは村上春樹の主人公なら言いそうなせりふかもしれない、とも思いました。
村上春樹の主人公はいつも「ちゃんとしていること」にとてもこだわりを持っていますし、それをユニークな言い方で伝えるからです。でも、
blogのエントリを一通り拝見したところ、そうではないようです。中島義道の流儀で「正確に嫌う」ことを目指されているようです。


「正確に」という言葉は、何か「正しいものやこと」があって、それからの逸脱の度合いを表現する言葉です。
「正確に測る」とか。つまり、正確に嫌うためには、「正しい嫌い方」が必要になります。正しい嫌い方って、あるのでしょうか。あるとして、
誰にとっての正しさなのでしょうか。嫌われる人にとっての正しさなのでしょうか。


私はこの文章では注意深く「きちんと」「ちゃんと」という表現をしています。ただ単に嫌ってもいいのですが、
私はできないのです。理由なくむかついたりできないのです。私は、自分が「理由なく他人を嫌うことができる」
ような人間だということを認められないのです。「自分はそんな下劣な人間ではない」「自分はそんな頭の悪い人間ではない」
という自意識のせいです。嫌いになるからには、それなりの理由がある、
そう分析して納得して初めて安心して人やモノを嫌うことができるようになります。そして、この私がとらわれている「ちゃんと嫌う」すら
「正確に嫌う」ことに比べると可愛気があるように感じられてしまうのです。


嫌い、というのは感情です。一方で「正確さ」に感情の入る隙間はありません。
面白い25mとか悲しい60分というのは比喩としてはなりたっても、あるいは省略としては成り立っても、文字通りの意味ではなりたちません。
もちろん、あえてその二つをくっつけることで生まれる不協和音こそが何かを代弁してくれる、という思いでサブタイトルに選んだのだと思いますが、
「100%うまくいく恋愛マニュアル」とか「正しいコメディー」と同じような悲哀を感じてしまいます。


 


そして、「他人を正確に嫌い、自分が他人に嫌われていることを正確に受け止める」
は対応関係が間違っていると思います。


「他人を正確に嫌い」は「自分が他人を嫌っていることを正確に受け止め」ですし、
「自分が他人に嫌われていることを正確に受け止める」は「自分が正確に嫌われる」です。


「正確に嫌う」ことと「正確に受け止めること」は次元の異なることです。「他人を嫌う(嫌われる)」ことと
「嫌われることを受け止める」ことは対照関係にはありません。私は、



「他人を正確に嫌い、自分が他人に嫌われていることを正確に受け止める」



という言葉からは、「自分は他人を嫌うが、他人は私を嫌うことができない(なぜなら私はそれを受け止めるから)」
という暴力の非対称性を感じ取ってしまいます。一見、嫌うし嫌われるという対応関係が成り立っているように見えるだけに、そして
「嫌われていることを受け止める」という低い立場から発言しているように見えるだけに、なおさら欺瞞を感じてしまいます。



「自分が他人を嫌っていることを正確に受け止め、他人に正確に嫌われる」



と言葉を入れ替えてみると、この言葉を発した人の立場がはっきりすると思います。


 




 


と、ここまでFADさんの言葉をばらばらにして分析してきました。分析は「正確さ」の母だからです。
FADさんは私を嫌うことができるでしょうか。なお、FADさんは「自分が他人に嫌われていることを正確に受け止める」ことはできません。
私はFADさんを嫌いではないからです。嫌いだったら無視しますよ。でも、嫌いの反対か、といわれればそれも違います。悲しみ、です。


中島義道についても同じ感情を持っています。中島義道の言葉が必要な人もいます。
中島義道の言葉が必要な時もあります。私自身、彼の言葉に救われたこと/時期があります。でも、目標としてではなく、踏み台として、
乗り越えるべき壁として「使う」のが「正しい」中島義道の読み方だと思うようになりました。


他人を正確に嫌う必要などありません。嫌われることを正確に受け止める必要もありません。嫌いだと思ったら嫌い、
嫌われたら落ち込めばいいのです。


おそらくFADさんが仮想的にしているのは、2chに代表される耳をふさぎたくなるののしり言葉だと思います。
気に入らなければすぐに「氏ね」「逝ってよし」という形で罵倒するだけの。でも、あの悪口が見苦しいのは「不正確」だからではなく、
相手とコミュニケーションする意思がないからです。そういう意味では「近所の○○がうるさいから投書してやめさせた」
と五十歩百歩ではないでしょうか。間違ったことに抗議することと嫌うことは違います。


言葉はブーメランです。必ずその言葉を発した人のところへ戻ってきます(自戒を込めて)。


 




 


最後に、このエントリを書く踏ん切りをつけてくれたM17星雲の光と影さんの好き・
嫌いに関するblogを紹介しておきます(これ以外にも素敵なエントリがたくさんありますよ)。



 

posted by ほんのしおり at 00:54| Comment(1) | TrackBack(2) | 日記・コラム・つぶやき

2005年11月08日

つまようじブリッジコンテスト

つまようじで250Kgを支えたという新聞記事を読んでびっくりしてWebを調べたところ、ブリッジコンテストという存在をしりました。
構造力学や建築を学んでいる学生さんを対象として開かれているようですが、先日のニュースの発信元になっている北海道の
日本航空専門学校ではこんなルールです。



  • 橋渡し(スパン)50cmに橋を架ける

  • 材料として使っていいのはつまようじと木工用ボンドのみで、合計100g以下

  • 重りをかけて10秒耐えたら合格とする


非常に単純明快なルールですが、なんと第9回の今年は250Kgに耐えた作品が2点あり、250Kg以上は計測できない
(想定していなかった)ため、その2点が優勝したということでした。


実際には公式サイト
「つまようじで学ぶ力とかたち」
を見ていただくとどんな形の橋がそんなに強いのかわかりますが、
たかがつまようじとバカにできない楽しさと奥深さがありますね。

posted by ほんのしおり at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記・コラム・つぶやき

2005年03月31日

便利になればアホになる

 
マルチタスクで人間の知力が低下する?--情報化時代のアイロニー
という記事がありました。
注意力欠如障害(Attention Deficit Disorder:ADD)
に似ているが一時的な症状である注意力欠如特質(Attention Deficit Trait:ADT)という考え方です。


頭良くなりてぇ、と電話、メール、テレビ、新聞、雑誌、Web、などなど、
ありとあらゆる情報をつかえまえようとすると結果的に注意力散漫になりアホになりまっせ、という、
まあ考えてみれば当たり前の話ではありますが、ギクっとしますね。

posted by ほんのしおり at 14:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記・コラム・つぶやき