諏訪 哲史 / 『アサッテの人』 / 2010-07(2007-07) / 講談社文庫 / B
存在する意味のある作品。だけど、私のための作品ではない。
あとがきで著者自身が書いているように、本書は著者の恩師を振り向かせるためだけに書かれた作品。 公開され私が手にとっていること、文学賞を受賞していること、それら諸々が何か「余計なこと」「純度を下げる行為」に思えてしまう。
本書は小説を書く小説というメタ構造を持っており、その点に非常に自覚的でかつ優れているのだが、読まれるという小説のもう半分側に対してはあまり意識が払われていない。 それが不満なのだけど、それも当然。読まれることを想定していなかったのだから。 一人に読まれることのみを目的として書かれた小説だったのだから。
もし宇宙に誰も聞く人のいない音がしたとして、果たしてその音は存在するのか、という問いがある。
認識されないものは存在しないのと事実上同じ、という立場。
「事実上」を外して認知されない=存在しないとする立場。
音とは振動であり、空気がない=伝える媒体(メディア)がないために、たとえ存在したとしても存在しないのと同じとする立場。
いやいや、届くとか聞こえるとかいうのとは別の次元で、発生した時点ですでに音は存在したのだとする立場。
同じ問いを、小説で問うてみる。
誰にも読まれない小説が書かれたとして、その小説は存在したのか。
著者は最初の読者である。譲ってこれは例外としよう。
著者以外の誰にも読まれない小説が書かれたとして、その小説は存在したと言えるのか。
著者以外の誰にも読まれることを想定しない小説が書かれたとして、その小説には存在する意味があるのか。
(最後の一文はちょっと論理の飛躍だけど)たった一人の読者しか想定しないで書かれた小説が、0ではなく1に向いていること、「なし」ではなく「あり」に向いていることによって、命を宿したという力強さに打たれる。
・・・というわけで、本作品の内容にまったく触れていない書評になってしまった。
まあ、内容はどうでもいい作品なのではないかな。
あえて言えば、「「「定型からの逸脱」という定型」からの逸脱・・・」という無限後退、「意味」から逃れることの不可能性、など、どこにでもある存在論的悩みのお話。
つまり、それ自体にはまったく新鮮さはない。
ほら先に述べた通り。本書は、その内容には意味はない。
存在の仕方に、意味がある。
もしそれを著者が、読者が、欲すればの話だけど。
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