2010年10月01日

[書評] 諏訪 哲史 / 『アサッテの人』

アサッテの人 諏訪 哲史 / 『アサッテの人』 / 2010-07(2007-07) / 講談社文庫 / B

存在する意味のある作品。だけど、私のための作品ではない。

あとがきで著者自身が書いているように、本書は著者の恩師を振り向かせるためだけに書かれた作品。 公開され私が手にとっていること、文学賞を受賞していること、それら諸々が何か「余計なこと」「純度を下げる行為」に思えてしまう。

本書は小説を書く小説というメタ構造を持っており、その点に非常に自覚的でかつ優れているのだが、読まれるという小説のもう半分側に対してはあまり意識が払われていない。 それが不満なのだけど、それも当然。読まれることを想定していなかったのだから。 一人に読まれることのみを目的として書かれた小説だったのだから。

もし宇宙に誰も聞く人のいない音がしたとして、果たしてその音は存在するのか、という問いがある。
認識されないものは存在しないのと事実上同じ、という立場。
「事実上」を外して認知されない=存在しないとする立場。
音とは振動であり、空気がない=伝える媒体(メディア)がないために、たとえ存在したとしても存在しないのと同じとする立場。
いやいや、届くとか聞こえるとかいうのとは別の次元で、発生した時点ですでに音は存在したのだとする立場。

同じ問いを、小説で問うてみる。 誰にも読まれない小説が書かれたとして、その小説は存在したのか。
著者は最初の読者である。譲ってこれは例外としよう。 著者以外の誰にも読まれない小説が書かれたとして、その小説は存在したと言えるのか。
著者以外の誰にも読まれることを想定しない小説が書かれたとして、その小説には存在する意味があるのか。

(最後の一文はちょっと論理の飛躍だけど)たった一人の読者しか想定しないで書かれた小説が、0ではなく1に向いていること、「なし」ではなく「あり」に向いていることによって、命を宿したという力強さに打たれる。

・・・というわけで、本作品の内容にまったく触れていない書評になってしまった。
まあ、内容はどうでもいい作品なのではないかな。
あえて言えば、「「「定型からの逸脱」という定型」からの逸脱・・・」という無限後退、「意味」から逃れることの不可能性、など、どこにでもある存在論的悩みのお話。
つまり、それ自体にはまったく新鮮さはない。 ほら先に述べた通り。本書は、その内容には意味はない。 存在の仕方に、意味がある。 もしそれを著者が、読者が、欲すればの話だけど。

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2010年09月21日

[書評] 有川 浩 / 『阪急電車』

阪急電車 有川 浩 / 『阪急電車』 / 2010-08(2008-01) / 幻冬舎文庫 / C

『図書館戦争』など、あらすじを聞いたり評判の人気作家と聞いて一度読んでみたいと思っていた有川浩。 「映画化決定!!」という帯とともに平積みされていた本書『阪急電車』を手にとりました。

阪急電車の今津線というローカル線で起きる人生模様を、うまく電車の中の触れ合い・乗り継ぎ・擦れ違いとしてフェードアウト/フェードインさせながら連結して描きます。

ヒネクレモノですみません。
ほのぼの+勧善懲悪+清く正しく美しい男女交際。 面白いストーリーに巧みなプロット。 どこにも文句のつけようがないように見えるし、実際、読書中はかなり楽しかったのですが、なぜかよい作品、お勧めしたい本として取りあげたくなりません。

きつい言葉でいうと、ファストフード臭がします。
確かにお腹は膨れるし味も少々濃いかなとは思うけどそれほど不味くないというかむしろおいしい。でも、やっぱり、それは半分工場とでもいうべきキッチンでマニュアル通りに右から左へと手間をかけずに作られたものなのです。

Amazon.co.jp: 『阪急電車』

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2010年09月16日

[書評] 村上 春樹 / 『走ることについて語るときに僕の語ること』

走ることについて語るときに僕の語ること 村上 春樹 / 『走ることについて語るときに僕の語ること』 / 2010-06(2007-10) / 文春文庫 / A

食わず(読まず)嫌いで敬遠していたことを後悔。いい読書でした。
食わず嫌いだった原因のひとつは、タイトルのあまりの格好良さと語呂の悪さ。 レイモンド・カーヴァーの"What we talk when we talk about love"からもらったそうな。道理で。

書くためには、走る必要があった。
走るためには、書く必要があった。
走り続けていなければ、書き続けることもできなかった。
書き続けていなければ、走り続けることもできなかった。
たんなるジョギング、健康法、気晴らしではなくて、作家としてあり続けるためには欠かせない行為であったのだ、という。

執筆をマラソンに例えるのは、まぁ、よく聞く話し。
だけど、村上春樹の伝えるニュアンスは少し違う。彼は言う。
練習を積んでいないとマラソンを走ることができないように、練習を積んでいないと作品を書くことはできないのだと。
才能に任せて書き散らしたり書きなぐったりすることは短い間であれば可能だろうけど、長い間にわたり、コンスタントに、一定の品質で書き続けるためにはトレーニングと鍛錬が必要なのだと。
老いや思うようにならないこととどう向き合うのかまで含めて丁寧に、正面から語ってくれるのを聞くと(そう、読むというより聞くという読書体験に感じられる)、説得力がある。
村上作品に乱暴なシーンが登場しても、粗雑に感じられない理由はこれか。乱暴さを丁寧に書いているんだ。

学校とはそういうところだ。学校で僕らが学ぶもっとも重要なことは、「もっとも重要なことは学校では学べない」という真理である。(p.72)
内田樹翁と相性がいいのがよくわかりますね。
走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。暇をみつけては、せっせとくまなく磨き続けること。(p.111)

この「メモワール」という形式もよかった。本人も書きあぐねていて、これなら書けると思った由。 随筆(エッセイ)でもなく、ドキュメンタリーでもなく、メモワール。
状況だけでなく心境まで伝わってきそうな素晴らしい写真。 少々ジャーナリスティックな俯瞰。 本人にしか書き留められなかったであろう内側から描いた瞬間。 時間軸でも、ちょうど良い距離感。
個人的には走ることからずいぶん遠ざかっているし、走ることの喜びを最後に感じたのは、さて、いつのことだったかしらという状態。 それでも、この作品に引きずり込まれてしまった。

Amazon.co.jp: 『走ることについて語るときに僕の語ること』

posted by ほんのしおり at 00:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍・雑誌